49年の生涯
1922 – 1934
浅草に生まれた少年
1922年、東京・浅草に生まれる。関東大震災後は家族で新潟へ避難し、幼い清は病気の後遺症も抱えた。学校や家庭になじめず、母とともに転居を重ねるなかで、のちに母の旧姓から「山下清」と名乗るようになった。
この章を動画で観る(2:00〜)1934 – 1939
八幡学園、紙との出会い
12歳で千葉の八幡学園に入り、教育の一環だったちぎり紙細工に出会う。色紙を数ミリに裂いて貼り重ね、細い紙をこよりにして輪郭をつくる。独自の工夫で、紙と糊だけから驚くほど深い色と密度を生み出した。
この章を動画で観る(5:37〜)1939 – 1940
17歳の貼り絵が注目される
学園の作品展をきっかけに才能は美術界へ届き、17歳で銀座の画廊で個展が開かれた。梅原龍三郎はその表現の激しさと純粋さを高く評価したという。だが清にとって大切だったのは名声より、紙をちぎり貼る行為そのものだった。
この章を動画で観る(5:37〜)1940 – 1954
描かない旅、記憶で描く絵
18歳で学園を出ると、徒歩を中心に各地を巡る放浪が始まった。旅先で作品を作ることはほとんどなく、見た風景を記憶に刻み、戻ったあとに貼り絵へ組み立てた。約14年にわたる自由な移動が、作品の風景を育てた。
この章を動画で観る(9:38〜)1954 – 1960年代
花火、火山、そして精密な世界
放浪の終わりは大きな注目を集め、清は画家として多くの人に知られるようになる。長岡の花火、桜島、東海道の景色など、旅で見た光景は時間を置いて作品になった。記憶の中の風景だからこそ、現実以上に鮮やかな画面が生まれた。
この章を動画で観る(13:59〜)1960年代 – 1971
残された素描と、旅する眼
晩年も制作を続け、1971年に49歳で亡くなった。死後には多くの素描も見つかり、貼り絵だけではない観察の積み重ねが明らかになる。テレビが作った放浪者像の向こうには、世界を見つめ、記憶から再構成した静かな表現者がいた。
この章を動画で観る(24:18〜)