37年の生涯
1853 – 1879
何者にもなれなかった青年
1853年、オランダ南部の小さな村ズンデルトに、牧師の長男として生まれる。16歳で画商グーピル商会に勤めるが解雇。書店員、教師、そして父と同じ聖職者を志し、ベルギーの炭鉱地帯で伝道師として働くも、貧しい坑夫たちに献身しすぎたことを問題視され、職を失う。
27歳になるまで、ゴッホは何者にもなれなかった。その挫折の底で、弟テオに宛てた手紙の中に、初めて「絵を描く」という言葉が現れる。
この章を動画で観る(0:00〜)1880 – 1885
27歳、画家になる
独学でデッサンを始め、貧しい農民や織工を描き続けた。1885年、32歳で最初の代表作《ジャガイモを食べる人々》を完成させる。暗い土の色で塗られた、ランプの下の農民の食卓。美しさよりも、働く人の手の正直さを描こうとした一枚だった。
この時期の生活を支えたのは、パリで画商として働く弟テオからの仕送りである。兄弟が交わした手紙は600通を超え、ゴッホの生涯を今日まで伝える最大の記録になった。
絵で、人の心に触れたい。「彼は深く感じ、やさしく感じる人だ」と言われるような絵を描きたい。─ 弟テオへの手紙より(1882年・大意)
この章を動画で観る(2:30〜)1886 – 1888
パリ、そして南仏アルルの光へ
1886年にパリへ出て印象派と日本の浮世絵に出会うと、パレットは一変する。暗い土の色は消え、色彩が爆発した。1888年、ゴッホ35歳。太陽を求めて南仏アルルに移り住み、画家たちの共同体「南のアトリエ」を夢見て、その部屋を飾るために描いたのが《ひまわり》の連作だった。

マルセイユの人がブイヤベースを平らげるような勢いで、僕はひまわりを描いている。─ 弟テオへの手紙より(1888年・大意)
しかし、招いたゴーギャンとの共同生活は2ヶ月で破綻する。1888年12月、激しい衝突の夜、ゴッホは自らの左耳を切り落とした。
この章を動画で観る(5:10〜)1889
療養院の窓から見た、星の渦
1889年5月、ゴッホは自らサン=レミの療養院に入る。発作の合間に、彼は病室の鉄格子の窓から見える夜明け前の空を描いた。それが《星月夜》である。実際の風景に、記憶の中の故郷の教会と、心の中の渦が重ねられている。

病と闘いながら、この1年だけで約150点を描いた。そして1890年2月、ブリュッセルの展覧会で《赤い葡萄畑》が400フランで売れる。生前に売れた、記録に残るただ1枚の絵である。
この章を動画で観る(9:00〜)1890
麦畑の上の、カラス
1890年5月、パリ近郊の村オーヴェル=シュル=オワーズへ。最後の約70日間で約80点という凄まじい速さで描き続けた。荒れる空の下の麦畑にカラスが舞うこの絵は、その最晩年の一枚である。

7月27日、麦畑で自らを撃ち、2日後の7月29日、駆けつけたテオに看取られて息を引き取った。37歳だった。テオもまた、兄の死からわずか半年後にこの世を去る。
悲しみは永遠に続く。─ 最期にテオへ残したと伝えられる言葉
この章を動画で観る(12:40〜)1890 –
死後、世界がゴッホを見つける
無名のまま死んだ画家を世界に届けたのは、テオの妻ヨハンナだった。彼女は遺された数百点の絵と手紙を守り、展覧会を開き、書簡集を出版する。ゴッホの言葉と絵は時代を超えて広がり、今、その作品の前には世界中から人が集まる。生前たった1枚しか売れなかった絵は、100億円を超える値で取引されるようになった。
この章を動画で観る(16:00〜)