90年の生涯
1760 – 1778
江戸本所の、描く少年
1760年、江戸本所に生まれた北斎は、幼い頃から物の形を写すことに夢中だった。鏡磨師の家で育つ道もあったが、絵への衝動は消えない。14歳頃には木版の彫師として働き、のちの画面を支える鋭い線の感覚を身につけた。
1778 – 1794
浮世絵師として、そして決別
勝川春章に入門して役者絵を学び、勝川春朗の名で浮世絵師として出発する。しかし師の死後、北斎は流派の型に収まらず破門されたと伝わる。失った居場所は、役者絵だけにとどまらない新しい表現を探す自由にもなった。
1794 – 1820年代
名を変え、暮らしを変え、描き続ける
北斎は何度も号を変え、住居も数え切れないほど移した。読本の挿絵、絵手本、遊び絵、風景と、仕事は多彩だった。生活は豊かとは言えず、火事や家族の苦難にも見舞われる。それでも描く量と探究心は少しも衰えなかった。
1830年代
70歳を越えて生まれた大波
70歳を過ぎて《冨嶽三十六景》に取り組み、《神奈川沖浪裏》を生んだ。爪のように巻く波、翻弄される舟、遠くに小さく静かな富士。輸入顔料のベロ藍を生かし、巨大な自然と小さな人の緊張を一枚の版画に圧縮した。

1834 – 1844
画狂老人と小布施の鳳凰
晩年の北斎は自らを「画狂老人」と名乗り、毎日を新しく描くことに捧げた。火事で画稿を失っても筆を止めず、80代で信州小布施へも赴く。88歳で岩松院天井の《八方睨み鳳凰図》を完成させ、肉筆画にも旺盛な力を注いだ。
1849 –
最後まで、まだ描き足りない
1849年、90歳で亡くなる間際にも、あと五年あれば本当の絵描きになれたと語ったと伝えられる。死後、浮世絵は海を渡り、モネやゴッホらを驚かせた。江戸の版画はジャポニスムを通して世界の絵画を変え、いまも新しい眼差しを促している。