84年の生涯
1911 – 1929
常識の外にあった少年時代
1911年、漫画家の岡本一平と歌人・小説家の岡本かの子のもとに生まれた。型破りな家庭で育ち、学校の規則にも容易には従わなかった。絵は、上手に写すためではなく、感じたものをそのままぶつけるための場所になっていく。
1930 – 1940
パリで前衛の渦へ
18歳で渡ったパリに残り、ピカソの絵に強い衝撃を受けた。抽象芸術のグループに加わり、シュルレアリスムにも接近するが、どちらにも安住しない。哲学や民族学まで学び、理性と非合理を対立させたまま抱える思想の芽を育てた。
1941 – 1946
戦争で失ったもの、残したもの
帰国後に前衛画家として出発した太郎は、1942年に召集され中国へ送られた。敗戦後の抑留を経て帰国すると、空襲で家もパリ時代からの作品も失われていた。35歳、何も残らない焼け跡から、もう一度制作を始めることになる。
1948 – 1960年代
縄文を見つけ、対極を爆発させる
戦後は「夜の会」を結成し、美と醜、理性と狂気を調和させずにぶつける「対極主義」を掲げた。東京国立博物館で縄文土器に出会うと、その荒々しい生命力を日本美の根源として再発見する。絵画、彫刻、文章へと活動は広がった。
1967 – 1970
進歩と調和を突き破る塔
大阪万博のテーマ館プロデューサーとなった太郎は、「人類の進歩と調和」の中心に太陽の塔を構想した。丹下健三の大屋根を突き破る高さ70メートルの姿は、未来だけを信じる祭典へ原始の生命を投げ込む、対極主義の巨大な実践だった。
1970 – 1996
大衆の真ん中で、爆発を語る
万博後、太陽の塔は保存され、太郎はテレビでも「芸術は爆発だ」と発信した。晩年まで描き続け、1996年に84歳で死去する。失われた《明日の神話》は死後に発見・修復され、いま渋谷の通路で多くの人の前に立ち続けている。