金箔の下にある55年
1908
フック ── 黄金に塗り込められた愛
崖の上で抱き合う男女を、金色の光と文様が包む。クリムトの《接吻》は、発表直後にオーストリアが買い上げた国の宝になった。
しかしその輝きの裏で、画家は「わいせつ」と罵られ、大学教授たちから追放運動を起こされていた。なぜ彼は金箔で愛を描いたのか。その問いから、黄金の画家の生涯をたどる。
この章を動画で観る(0:00〜)1862 – 1876
誕生と幼少期 ── 彫金師の息子
1862年7月14日、ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれる。父エルンストは金の彫金師で、金属に金を貼り、装飾を施す職人だった。後の黄金様式の源流は、幼いクリムトが父の仕事場で見た金箔の光にある。
7人兄弟の次男として暮らしは豊かではなかったが、14歳で奨学金を得てウィーンの工芸学校へ入学する。彼が受けたのは、注文に応える装飾職人としての訓練だった。
この章を動画で観る(1:00〜)1880 – 1892
修行・転機の時代 ── 帝国の寵児から喪失の淵へ
弟エルンスト、友人フランツ・マッチュと芸術家カンパニーを結成し、ブルク劇場や美術史美術館の装飾を手がける。1888年、26歳で皇帝から黄金功労十字章を授与され、帝国に認められた成功者になった。
しかし1892年、父と弟エルンストが相次いで死去する。クリムトは筆を止め、注文通りの装飾が本当に自分の芸術なのかを問い始めた。その時期に出会ったエミーリエ・フレーゲとは、結婚せずとも27年にわたる特別な絆を結んだ。
この章を動画で観る(2:47〜)1897 – 1905
苦悩と葛藤 ── ウィーンを敵に回した男
1897年、保守的な美術家組合を離れ、仲間とウィーン分離派を旗揚げする。「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」という宣言のもと、クリムトは初代会長になった。帝国の寵児が、古い権威から分離した瞬間だった。
ウィーン大学の天井画「哲学」「医学」「法学」では、学問の勝利ではなく、老い、病、死と人間の不安を描いた。教授たちと新聞から「わいせつ」と攻撃され、1905年に報酬を返して国家の注文を断ち切る。
この章を動画で観る(4:47〜)1903 – 1908
代表作の誕生 ── 黄金の10年
1903年、ラヴェンナで見たビザンティン・モザイクの金に衝撃を受ける。父から受け継いだ彫金の感覚と画家の表現が結びつき、顔や手を生身のまま残し、衣服と背景を金色の装飾面で包む黄金様式が生まれた。
1907年の《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》、1908年の《接吻》では、四角、円、渦巻きの文様が人物の感情と呼応する。官能の輝きの下に、崖際の足の緊張や、愛の危うさまで忍ばせた。
この章を動画で観る(6:39〜)1910 – 1918
晩年と最期 ── 「エミーリエを呼んでくれ」
晩年はウィーン郊外のアトリエで、青い作業着のまま猫に囲まれて描き続けた。夏にはエミーリエとアッター湖畔で過ごし、金の面からより自由で鮮やかな風景へと色彩を広げていく。
1918年1月11日、脳卒中に倒れ、最初に求めたのはエミーリエだったと伝えられる。肺炎を併発し、2月6日に55歳で死去。同じ年、後継者と見たエゴン・シーレも亡くなり、ウィーンの黄金時代は幕を閉じた。
この章を動画で観る(9:33〜)1938 – 現代
死後の評価と遺産 ── 奪われた黄金
クリムトの死後、《アデーレ》はナチスによるユダヤ人家族の財産没収の中で奪われ、戦後も長くオーストリアの美術館に置かれた。相続人マリア・アルトマンが返還を求め、2006年に絵は正当な家族のもとへ戻った。
国家に愛され、国家と衝突し、死後は歴史の暴力に巻き込まれた画家。その装飾と人物表現は、絵画だけでなくデザインやイラストにも影響を残している。
この章を動画で観る(11:18〜)1908 –
金箔の下にあるもの
クリムトは自画像を一枚も残さず、自分を知りたければ絵を見てほしいと書いた。生前に「わいせつ」と罵られた装飾は、今ではウィーンを象徴する光になっている。
《接吻》の金色が足を止めるのは、ただ美しいからではない。直線と曲線、陶酔と不安、身体と装飾。その対立を一枚の画面に閉じ込めた、画家の覚悟が見えるからだ。
この章を動画で観る(13:26〜)