25年の生涯
1872 – 1891
ブライトンの少年
1872年、ブライトンに生まれる。病弱で、早くから線に才能を見せた。母の再婚や家計の不安定さのなか、独学でペンを握る。
「自分も芸術家になりたい」。野心は、残された時間が少ないという自覚と一緒に育った。
この章を動画で観る(00:58〜)1892 – 1894
独学の線、ジャポニスム
日本の浮世絵の平面と余白を吸収し、黒いインクだけで世界を組み立てる。バーン=ジョーンズに才能を認められ、挿絵の仕事が始まる。
白は空白ではなく形になる。ヴィクトリア朝の絵が積み上げた陰影を、彼は一本の線で捨てた。
この章を動画で観る(02:52〜)1894 – 1895
サロメとスキャンダル
オスカー・ワイルド『サロメ』の挿絵で一躍有名になる。同時に『イエロー・ブック』の美術編集。退廃とエロティシズムは賛美と憎悪を同時に呼んだ。
ワイルド事件に巻き込まれ、職を失う。結核は進行し、「病んだ精神の産物」と罵られながらも線は鋭くなった。
この章を動画で観る(06:28〜)1896 – 1898
破棄してほしい、という願い
晩年は信仰に傾き、25歳で死ぬ。直前に「猥雑な絵を破棄してほしい」と書いた。願いは完全には果たされず、線は20世紀のアール・ヌーヴォーと60年代のグラフィックへ流れ込む。
「グロテスクでなければ、私は何者でもない」。短い6年が、黒と白の歴史を永久に歪めた。
この章を動画で観る(14:00〜)