楽園を探し続けた54年
1888
ゴッホの耳切り事件の夜
1888年12月23日、アルル。ゴッホが自ら左耳の一部を傷つけた夜、同じ黄色い家にはポール・ゴーギャンがいた。二人は画家の共同体を夢見て暮らしていたが、目の前の感情を筆にぶつけるゴッホと、記憶の中で画面を組み立てるゴーギャンは、あまりにも違っていた。
事件の原因をゴーギャン一人に帰すことはできない。その後も二人は手紙で互いの芸術を認め合った。わずか9週間の共同生活は悲劇に終わったが、二人の表現を決定的に深めた時間でもあった。
この章を動画で観る(0:00〜)1848 – 1867
楽園の記憶 ── リマの幼少期
1848年6月7日、パリに生まれる。共和派のジャーナリストだった父は、南米へ向かう航海の途中で亡くなった。母と姉とともにペルーのリマへ渡り、7歳まで過ごした強い日差し、色鮮やかな衣装、インカの土器が、後の「楽園」の原型になった。
フランスへ戻った後は寄宿学校になじめず、17歳で船乗りになる。母の死を航海中に知った青年が帰る場所を失ったとき、待っていたのはパリ証券取引所の仕事だった。
この章を動画で観る(1:35〜)1873 – 1885
日曜画家 ── 安定と情熱のはざまで
株式仲買人として成功し、デンマーク人のメット・ガッドと結婚。5人の子どもに恵まれたブルジョワの家庭を築いた。一方、日曜日には絵を描き、モネ、ピサロ、セザンヌ、ルノワールら印象派の作品を給料で集め、ピサロに学んだ。
1882年の市場暴落で収入が落ちると、35歳のゴーギャンは「これからは毎日絵を描く」と決める。コペンハーゲンでの商売は失敗し、1885年に一人パリへ戻った。捨てたのは職業だけではなく、家族と安定した生活そのものだった。
この章を動画で観る(3:13〜)1886 – 1888
アルルの9週間 ── 記憶で描く色
貧困の中でポン=タヴァンに移り、見たままの光から離れて、記憶と想像で画面をつくり始める。輪郭線で形を囲み、現実にはない赤や青を平らな色面に置く方法は、後に総合主義、クロワゾニスムと呼ばれた。
ゴッホに招かれてアルルへ向かい、黄色い家で共同生活を始める。しかし芸術論は衝突を重ね、12月23日の夜に事件が起こる。ゴーギャンはアルルを去り、「ゴッホの耳を切らせた男」という汚名を背負うことになった。
この章を動画で観る(6:38〜)1891 – 1897
楽園の幻 ── タヒチと大きな問い
1891年、43歳で南太平洋のタヒチへ向かう。文明から離れた原始の楽園を求めたが、パペーテはすでにフランスの植民地だった。彼は島の奥地マタイエアで暮らし、現実のタヒチではなく、心の中の楽園を色と形でつくり直した。
1897年、娘アリーヌの死を知り、健康も借金も崩れていく。幅4メートル近い画面に、生まれたばかりの子どもから死を待つ老婆までを描いた《我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか》は、人生の問いを一枚に封じた遺書のような作品になった。
この章を動画で観る(10:19〜)1901 – 1903
快楽の家 ── 絶海の孤島での最期
1901年、タヒチからさらに遠いマルキーズ諸島のヒバ・オア島へ移る。家に「快楽の家」と看板を掲げたが、病と痛みは進み、植民地の役人の横暴から島の人々を守ろうとして訴えられもした。
1903年5月8日、54歳で死去。枕元にはモルヒネの空き瓶があり、イーゼルには熱帯ではなく、雪に覆われたブルターニュの村の絵が残っていた。最後まで彼が見つめていたのは、地図上の楽園ではなく、記憶の中の場所だった。
この章を動画で観る(14:14〜)1906 – 現代
死後の逆転 ── 20世紀美術の扉
死の3年後、1906年のパリ回顧展が評価を変えた。現実の色から絵を解放する発想は、フォーヴィスムや若きピカソにも響き、20世紀美術の扉を開く踏み台になった。
同時に、家族を捨てたことや、植民地支配下のタヒチでの権力差を含め、彼の生き方は問い直されている。聖人ではない矛盾した人間が残した色彩と問いだからこそ、今も見る者を立ち止まらせる。
この章を動画で観る(16:24〜)問いの余韻
あなたの楽園はどこにあるか
ゴーギャンが探し続けた楽園は、地図の上にはなかった。株式仲買人の安定、家族、文明を離れても、たどり着いたのはキャンバスの中にだけ存在する場所だった。
「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」。彼が残した問いを、自分の暮らしに重ねてみる。絵の前で立ち止まることが、逃亡ではなく、見つめ直す時間になる。
この章を動画で観る(17:37〜)